父の背中を見て店舗経営の道へ進み、約30年にわたり店舗を展開してきた石井宏冶さん。2021年1月、事業承継の手段としてM&Aを選択し築き上げた会社を譲渡。いかにして事業を拡大し、M&Aを決断したのか、経営者として最後をどう締めくくろうとしているのか、その想いについて伺った。
本日は石井様のお話をお聞きします。 石井さんは2021年に「日本再生酒場」や「もつやき処い志井」などを展開されていた会社を東証プライムに上場されている、株式会社ホットランドさんへ事業承継されました。譲渡から数年経ちましたが、現在はどのように過ごされていますか?
現在は残っている「クリスマス亭」の営業に関わっているほか、「もつ焼き3代目」というお店のメニュー開発にも携わっています。
「クリスマス亭」は相当長い歴史があると思いますし、ご年齢的なことも考えると、今後どのようにしていくかをお考えではないでしょうか?
そうですね。この店も来年の1月でちょうど30年になります。私も72歳になりますので、「このお店をどうきちんと締めくくるか」は、常に頭の中にあります。
場合によっては、どなたかにお店を引き継いでいただくという選択肢もありますか?
はい。30年間、地域の方々に本当に可愛がっていただいたお店です。ですので、味や接客のクオリティはできるだけ落とさず、引き継ぐ形が取れたらと考えています。
建物を含めすべてに石井さんのこだわりが詰まったお店です。もしこのお店の承継にご興味のある方がいらっしゃれば、ぜひ一度お話をいただきたいと思います。
石井さんは、「日本再生酒場」や「もつやき処 い志井」など、数々の有名店を展開してこられました。もともとはお父様が中野で創業されたもつ焼き店がルーツで、その後お店は移転を重ねながら、地域に愛される人気店となりました。石井さんはその暖簾を受け継ぎ、2003年には新宿三丁目に「日本再生酒場」を出店。たちまち繁盛店となり、外食業界で権威ある「外食アワード」の第2回を受賞されました。
もつ焼きを軸としながらも、さまざまな業態で話題のお店を展開され、洋食業態の「クリスマス亭」や、全国に100軒以上広がるフランチャイズ展開にも成功されています。幅広い分野で、お客様に愛される店づくりを丁寧に続けてこられた企業ですね。
「日本再生酒場」は、い志井グループの象徴的な存在となり、業績面でも素晴らしい成果を上げました。アワード受賞にもつながったこのお店ですが、開発に至った経緯を教えていただけますか?
あの場所は、もともと精肉店だったスペースなんです。少し手前、新宿駅寄りの場所に「新宿ホルモン」という店を出したところ、おかげさまでヒットしまして。そのさらに先には「桜吹雪が風に舞う」という人気のラーメン屋さんがあり、オーナーは九州出身の方で、私も大変お世話になっていました。
そのオーナーは実は精肉店の経営者でもありまして、「肉屋を閉めるから、その場所にもう一軒ラーメン屋を出さないか」という話を受けたそうなんです。ただ、すぐ近くにある自分の店と競合してしまうため、それは難しいということで、私のところに「この場所を使ってみないか」と声をかけてくださったのが始まりです。
当時としては珍しかった立ち飲みスタイルのお店を展開され、「日本再生酒場」は立ち飲みブームの先駆けとも言われました。そういったスタイルを取り入れた理由には、どのような背景があったのでしょうか?
実は、父が2度目の心筋梗塞で倒れた頃のことでした。医師からは「かなり危ない状態」と言われていて……。
父は私が生まれる前、兵隊から帰ってきてすぐに中野で商売を始めたのですが、最初は人の家の塀を借りて、組み立て式のカウンターと屋根だけの屋台だったと聞いています。店じまいになるとそれを畳んで帰る、立って飲めるのは4、5人程度という、そんなお店でした。
息子として、父に感謝を口に出して伝えるのはどこか気恥ずかしい。でも、「もし父がこのまま亡くなってしまったら、後悔する」と思ったんです。
そこでスタッフたちに相談して、9.5坪の小さなお店で、父が帰還後に始めた屋台と同じような立ち飲みスタイルでもつ焼き屋をやろうと決めました。父が使っていた食材を使って、あの時代の空気を再現したかった。そして「もしこの店がうまくいったら、父を車に乗せてそっと見せてやろう」と。
ありがたいことに店は大ヒットし、歩道までお客さまであふれるほどの盛況になりました。ある日、父が好きだった車を私が運転して、後部座席に父を乗せて店の前を通ったんです。
すると、暖簾がひっきりなしにかき分けられていて、「もつやき処 い志井」という屋号すら見えないほどの人だかり。それを見た父が、「この店すごいなあ、道まで人があふれてる。もつ焼き屋さんなのか?」と聞くので、「親父、これ、うちの店なんだよ」と伝えると、「えっ、いつの間にこんな店作ったんだ?」とびっくりしてました。もちろん父には内緒で進めていたんです。
昭和23年に父が始め、昭和25年に屋台から店舗になった。あの時代と同じスタイルでやってみても、これだけお客さんに喜んでもらえる。それは、父のやっていたことが正しかったという証明でもありますし、私から父への感謝の表現でもありました。
スタッフたちも父をとても慕ってくれていて、「親父さんの気持ちを受け継いで、そんなお店をつくりましょう」と賛同してくれました。
だから、最初から「立ち飲みブームを作ろう」なんて気持ちはまったくなかったんです。あくまで父への想いから始まった店なんです。
クリスマス亭もまた、採算を度外視して作られたという、こだわりの詰まった店づくりのストーリーがあるのですね。結果的に、これほど魅力的なお店になったのは、その考え方の違いがあったからこそかもしれません。
採算を考えてお店を作ったことは一度もありません。経営者としては失格かもしれませんが、それがうちの特徴なのかもしれませんね。
結果的に採算が取れているのですから、大成功ですよ。
危なっかしい時期もありましたけどね(笑)
このお店も、かつてアメリカに行かれた時の体験がきっかけになったそうですね。その時のお話をお伺いしてもよろしいですか?
大学を卒業して、最初は競泳の道に進みました。尊敬する監督とともに、横浜でスイミングクラブを立ち上げたんです。ちょうどスイミングクラブがブームになっていた頃で、これから全国展開していこうという矢先、父が急に倒れてしまい、実家に呼び戻されました。
それからは、毎日レバーやパンを切って串に刺す単調な作業の繰り返しで、「これを一生続けるのか」と思うと、本当に嫌でたまらなかった。そこで母を説得して、「このままでは小さなもつ焼き屋で終わってしまう。アメリカへ行って外の世界を見てくる」と、もっともらしい理由をつけて、半年ほどアメリカに行きました。
お金も底をつき、帰国も迫る中、西海岸で偶然、今のクリスマス亭にそっくりなレストランを見つけたんです。当時の私は、所持金もなく、レンタカーも返せず、「このままでは捕まってしまうのではないか」と途方に暮れていました。とにかくお腹が空いて、店に入ってみると、高齢のご夫婦が経営していて、午後の早い時間だったのでお客さんは私だけでした。
実は一瞬、「食べて逃げようか」と悪い考えがよぎったんです。でも結局、ハンバーガーとコーラを頼んだら、頼んでいないサラダが出てきた。断ろうとしたら、ご主人が「いいから食べなさい」と身振りで伝えてくれて。その優しさに触れているうちに、良心が芽生えて、「お金を持っていない」と正直に打ち明けました。するとご主人がニコニコし始めた。
あとで分かったことですが、そのご夫婦は、駐車場に入ってきた真っ黒に日焼けした短パン姿の男を見て、「あいつは何かやらかすぞ」とご主人、「そんなに悪い人じゃないはず」と奥さんが賭けをしていたそうで、私が正直に打ち明けたことで、奥さんが負けて、ご主人に釣り竿を買うことになった(笑)。
それがきっかけで、2階の住居に「泊まっていきなさい」と言っていただき、1週間お世話になりました。私は大学時代、料理屋でアルバイトをしていたので、皿洗いや厨房の掃除は得意分野。毎朝早く起きては駐車場や店の掃除を率先してやっていました。すると、アルバイトのアメリカ人の若者とは大違いだと驚かれまして。彼は皿洗いも下手で、いかに楽をするかしか考えていませんでしたから。
最終日の夕方、「今日は20人くらいのパーティーがあるから、これを仕込んでおいて」と言われ、厨房で準備をしていたら、「ちょっと来い」と呼ばれました。行ってみると、日系人の方がいて、通訳してくれたおかげで、初めてご夫婦が私を面白がってくれていたこと、あの釣り竿の賭けの話なども聞かされました。
次の日、帰国の航空券はすでに持っていたのでそのことを伝えると、なんとレンタカーを返すためのお金まで、給料として渡してくださいました。そして、ご主人がこう言ったんです。
「お前は日本に帰って、まず父親の背中を見ろ。若者らしく、世界を見て考えるのも大事だが、まずは一歩、自分の足で踏み出すことが先だ。もし、いつかこの店のような店を作ったら、連絡してこい。見に行ってやるから」
その言葉は、まるで日本の浪花節のようで、心に深く刺さりました。
帰国後は、「どうしてもあの店のような店を作りたい」と思い続けました。しかし、東京で250坪の土地を買い、アメリカの機材や木材で店を建てるなんて、若い私には到底無理で、実現までには20年かかりました。採算は度外視で、「作りたい」という想いだけで、やっと見つけた土地に、銀行と相談しながら建てたのが、今のクリスマス亭なんです。
お作りになったお店一つひとつに、そういった背景や物語があるからこそ、これほど魅力的なお店になるのですね。クリスマス亭は、ぜひ多くの方に訪れてほしいと思います。店内の隅々までこだわりが感じられますし、こうした背景を知ってから訪れると、より深く感じ取れるものがあります。
直営店も含めて、本当に多くのお店を作ってこられました。もともとは水泳業界でご活躍されていたのに、結果として飲食業界で50年近く経つわけですね。振り返ってみて、特に印象に残っている出来事はありますか?
やはり一番大切なのは、お客様が「美味しい」と感じてくれること。そして「ここで食事をして心地よかった」と思ってもらえることです。飲食業界が発展する中で、そういった感覚が薄れてしまっているようにも感じています。
だからこそ、今でもクリスマス亭やもつ焼き屋では、人の気持ちが通う店づくりを大切にしています。売上のために同じ店を何軒も作るとか、コスト削減のために仕入れ先に無理をさせるのではなく、当店も取引先も共に潤い、お客様には「良かった」と心から思っていただける。それこそが、商売にとって最も大切なことだと、今もずっと信じています。
事業承継、つまり会社を今後どうしていくかという課題は、ご年齢を重ねるなかで、多くの経営者が直面されるテーマです。石井様は、いつ頃から事業承継についてお考えになっていたのでしょうか?
60代に入ってからですね。私には息子が一人おりますが、彼が何百人ものスタッフの上に立ち、その生活や将来を背負っていける器かどうか、ずっと考えてきました。性格的にも、彼にはそれが向いていないのではないかと感じていました。また、長年私の片腕として社長を務めてくれていた人物も、同じ時期に体調を崩し、継承が難しくなりました。そうなると息子しか選択肢がなくなりますが、それも現実的ではないだろうと考え始めたのが、事業承継を真剣に意識し始めたきっかけです。
今、会社で働いてくれている従業員たちの将来を第一に考えたとき、私たちの会社の理念や文化に共感し、しっかりと引き継いでくれる企業に託すのが最善だと考えるようになりました。そこから本格的に承継の準備を進めるようになったんです。
事業承継には、ご親族への承継、社内幹部への承継、そして社外へのM&Aという三つの選択肢がありますが、それぞれをご検討されたうえで、最終的にM&Aという方法を選ばれたのですね。
はい、その通りです。
実際にM&Aを進めるなかで、従業員の皆様へ事前に譲渡の意向を伝えられていた点が、とても印象的でした。一般的には、従業員には極秘で進め、譲渡が確定した段階で初めて知らされることがほとんどです。M&Aという言葉の持つ重々しい印象から、従業員が不安になって離職を考える、あるいは根も葉もない噂が広がるといったリスクもあるためです。それでも事前に伝えられたのは、どのような理由からだったのでしょうか?
私の商売のやり方や考え方自体が、一般的ではないのかもしれません。ですが、何十人、何百人という従業員の生活を背負っている以上、自分の考えを率直に伝えることは当然だと思っていました。日頃から、私はスタッフに対して何も隠さず話すことを大切にしていました。
息子に「事業を継いでほしい」と伝えたときも、本当に彼がそれを望んでいるのか、自分自身に問いかけましたし、彼のことをよく知るスタッフにも率直に意見を求めました。「社長の息子だから」という理由だけで人生を縛ることはしたくなかったんです。会社経営は歌舞伎のように世襲である必要はない。常にそう考えていました。
ですから、何も言わずにある日突然「明日から経営者が変わります」と伝えるようなやり方は、私の信条には反していました。毎週の社内ミーティングでは、事業承継の進捗や、候補先の企業の印象なども共有し、社員の意見を聞いてきました。中には「その会社は合わないと思います」と反対されることもありました。それでも、全員が納得できる相手に巡り会えたことは、本当に幸運でした。結果として、譲渡先の企業とスタッフはとても良い関係を築いていて、皆が今の状況に満足してくれていることが何より嬉しいですね。
石井様のやり方は、本来あるべき理想の形だと感じます。従業員の皆さんも、いつかは経営者が引退することを理解していますし、早い段階で「社内承継もあれば社外承継の可能性もある」と伝えておくことで、心の準備ができる。結果として、皆さんが冷静に対応でき、移行期を支えてくださる。非常に理にかなった、素晴らしい組織体制だと思いました。
50年という長い年月をかけて築かれた会社を手放す決断は、非常に大きなものだったかと思います。その決断に至った“最後の一押し”となったきっかけのようなものはあったのでしょうか?
私は昔から、「始まりがあれば必ず終わりがある」ということを、どこかで常に意識してきました。競泳を引退した後も、コーチや大学の監督など、さまざまな形で水泳に関わってきましたが、どれだけ泳いでいても、「最後に泳ぐのはどんな日だろう」と、ふと考えることがありました。
車の運転が好きですが、「最後に運転するのはどこへ行く時だろう」「どんな車に乗っているだろう」と、そんなことまで考えてしまう性格なんです。何かを始めたときには、必ず終わりがくると知っているからこそ、その“終わり”を、自分が納得できるかたちで迎えたい。誰にも迷惑をかけず、静かに、潔く、きれいに終わりたい。そう考えるようになりました。
それは「命」も同じです。母から生まれた以上、いつかは自分にも最後のときがやってきます。その時を、どこで、どう迎えたいのか。理想通りになるとは限りませんが、心のどこかでずっとイメージしてきました。事業承継の決断も、その延長線上にあったのだと思います。
石井さんには当社の顧問にもなっていただき、折にふれて情報交換をさせていただいておりますが、その中でも特に、オーナー経営者としての「最後の幕引き」、つまり、いかにしてきれいに事業を終わらせるか、というお話が印象に残っています。そのお考えについて、詳しくお聞かせいただけますか?
散らかしっぱなしで事業を終えるのは、多くの人に迷惑をかけることになりますからね。これは人生においても同じです。何かを始めるのはとても楽しく、ある意味では簡単です。商売も、結婚も、恋愛も、どれも夢と希望を持って楽しく始めます。しかし、恋愛や結婚が終わる時、そして人生の最期に、きちんとけじめをつけなければ、後味の悪いものになってしまいます。私自身、一度離婚を経験しているので、物事を終えることの大変さは身にしみて分かります。商売も全く同じで、店を畳む時はきれいな形で終えなければならないと常に考えています。
ですので、30年間続けてきたこのレストランも、自分の年齢を考えると、そろそろ潮時かなと感じています。中原さんがおっしゃるように、現在働いてくれているスタッフたちに「こういう風に考えているんだけど、皆は今後どうしたい?」と問いかけ、彼らの将来のことも含めて相談しながら、少しずつ前に進めているところです。
石井さんご自身が考える、最適なタイミングとはどのようなものでしょうか。
「自分の残りの人生は、あとどれくらいだろう」と大まかにですが考えるんです。死ぬ間際まで後片付けに追われて、ようやく終わったと思ったら半年で亡くなる、なんてことでは切ないじゃないですか。だからこそ、人生の最後は少しでも長く、自分の理想とする生き方をしたい。この店をいつ、どう閉じるかというのは、そこからの逆算で決まってきます。
私は常々、店を作る時から閉める時のことを考えてきました。そういう意味で、30年というのは良い節目なのかなと思っています。この店は、阪神・淡路大震災の翌年、1996年の1月17日に、神戸でお世話になった方々をお招きしてオープンしました。来年の1月17日でちょうど30年になりますから、そのあたりが一つの区切りだと考えています。
選択肢は二つあります。一つは、私と同じような気持ちで、この町で店を続けてくださる方が現れること。それが一番ありがたいです。そうでなくとも、この建物に価値を見出し、何か別の形で活用してくださる方がいるのも理想的です。自分で作ったものですから、自分の手できちんと壊すことも考えていますが、現在の消防法ではこの建物を新しく建てることは不可能です。ですから、できればこの建物の価値を理解し、生かしてくださる方が見つかるのが最善だと考えています。
以前お話を伺った別の経営者の方も、「自分も会社も元気で、良い状態のうちに次世代のことを考える」とおっしゃっていましたが、まさにそのようなイメージですね。クリスマス亭はまだまだ素晴らしい状態ですから、次につないでいける方がいらっしゃれば理想的ですね。ところで、石井さんは何か新しいことを始めようというお考えはないのですか?
ないですね。また新しく散らかすことになってしまいますから。もう、そんなことができる年齢ではないと自覚しています。今は、妻から「持っている車を整理しなさい」と言われて、一台ずつ手放しているところです。最後に妻と二人で乗るのにふさわしい、最高にかっこいい一台は何かを考えながら、計画を立てています。
事業は畳んでいくけれど、ご自身の人生はまだ続いていく。その新しい扉を開いている、という感じでしょうか。人生の最終章を心から楽しむために、心身ともに元気なうちに、将来のことをしっかりと考えておくことが、いかに大切かということですね。
その通りだと思います。
本日は貴重なお話をありがとうございました。
(左から)石井様、弊社中原
取材日:2025/6/17